ハーマン号

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熊本県所蔵 「肥後細川藩拾遺 」より写真を転載させて頂きました。

急にハーマン号と言われてもきっと驚く人が多いに違いない。実は、私とハーマン号とは関係があるのです。
色々調べると、私の先祖の一人が肥後・熊本藩の藩士として、ハーマン号に乗船していた可能性が高く、「ハーマン号事件」で消息を断ったらしいということが分かってきたのである。


戊辰戦争の時、津軽藩の救援に向かう熊本藩士350名を乗せた「ハーマン号」(米蒸気外輪船、郵便船を幕府がチャーター)が、明治2年1月3日未明、房総・勝浦市川津の難所、根中沖で嵐のため難破し205名の熊本藩士と22名の米国乗組員が遭難した。

郷土史研究家であった父、それを引き継いだ長男・荘一郎による調査と研究の成果の一つとして、なんと、この船には我が岡松家の先祖の一人が肥後・熊本藩の一員として乗船していたらしいことが分かってきた。
2011年9月、私は兄・荘一郎の依頼により、肥後・熊本藩士の遭難地である勝浦市と同じ県内・千葉市に住む者としてハーマン号について調査することになった。

インターネットでは、細川家のサイトを筆頭に、「ハーマン号」というキーワードで多くの情報が収集できる。

勝浦市・八幡岬にある勝浦灯台の近くの公園「官軍塚」には慰霊碑が建立され津慶寺(しんけいじ)が菩提寺となり、毎年2月には勝浦市主催の慰霊祭が取り行なわれる。
先祖がここで遭難したかどうかは未だ不明ではあるが、本ページではハーマン号について、当時の歴史的な状況、先祖の運命を辿ってみることにしたい。


資料の一つに「遭難者名簿」がある。これは津慶寺の過去帖をベースにして肥後藩がリスト化したものであるが、実は、その中には先祖の名前が見当たらないのである。

混乱した時代であったから名簿も完璧なものになっていないとされ、一方では、父と兄が調べた別の資料には、先祖の死亡時期が同年の8月と記されており、ハーマン号の遭難は1月であるから、現時点では、先祖が「ハーマン号事件」で遭難したとは断定できず、まだ、謎に包まれたままである。


本稿では、以下の項目に分けて「ハーマン号事件」と先祖との関わりについて説明する。

こ れ ま で の 経 緯

① 2011年8月12日


兄・荘一郎よりハーマン号について調査依頼を受ける

教育家であった私の父は、実家のある熊本県芦北郡津奈木町の町史や西南戦争に関する歴史を研究するいわゆる「郷土史研究家」でもあった。その中には当然岡松家の系譜についての調査研究も含まれている。その事業を引き継いだ長男・荘一郎も研究を継続させ、津奈木町の支援を受けて、他のグループ仲間とともに幾多の郷土史を上梓している。

2011年8月12日、母の13回忌で帰省した折、。兄・荘一郎から、「ハーマン号について調べてくれ」との依頼を受けた。その時見せられたのが、資料「肥後細川藩拾遺 明治2年1月2日ハーマン号沈没事件」に記載されている、ハーマン号座礁の時の生存者・死亡者リストである。

この事件を機に消息を断った先祖がいたという情報を父が発見し、兄に引き継いだのであるが、実は、その先祖の氏名が不詳なのである。そのとき、その先祖が岡松姓を名乗っていたのか、名前を何と言ったのかすらも分かっていない。分かっているのは、「須佐見家の一員としてハーマン号」に乗り合わせていた」という事実だけである。井上姓を名乗っていた可能性もあるという。

依頼を受けた私は、ハーマン号事件について、調査を開始した。先ず、勝浦市役所から情報収集を行い、同時にインターネットから情報収集を行った。


② 2011年10月18日 勝浦市を訪問

勝浦市役所から多くの情報を頂いた。(以下はその時の結果を知らせる兄への手紙から転載)

市では件の過去帖と、我々も知っている肥後藩拾遺資料の二つを調べてくれました。

「須佐美」「井上」の人名を調べてもらったのですが、井上については何も記載がなかっようです。 ただ、資料を見ると、「松岡栄助」(火葬)という記述が見つかります。時として、岡松を松岡と間違えられることがあるので、いささか気になっております。また、過去帖にしろ「氏名のミスもある」という情報もありますので要チェックかと・・・

先日、10月18日に、丁度帰省していた順子(長女)と貴美子(妻)の3人で勝浦を訪ねてきました。まず、市役所社会教育課を訪ね、多数の資料を頂きました。次に、官軍塚にコスモスの花を持参してお参りしてきました。あいにく、i氏は出張で不在ゆえ、前もって用意してあった資料をもらったという次第です。

残念ながら過去帖の原本を守っている「津慶寺(しんけいじ)」までは行けず、次回訪問時の宿題として残りました。毎年、8月には官軍塚で慰霊祭を行っているそうですから、岡松家を代表して参加したいと考えています。


③ 2011年10月18日 官軍塚を訪問

市役所を去って、次に、近くにある官軍塚を訪れた。前もって用意してあったコスモスの花束を慰霊碑の前などに手向けて、「肥後藩士たちの霊安かれ」と念じた。この時撮った写真は、当ページの別項で掲載しておきます。

資 料・リンク集
ハーマン号」、「官軍塚」をキーワードにして検索したインターネットの検索結果を記載しておいた。
ハーマン号事件の遺族、熊本県民、細川家、勝浦市役所、勝浦市民、旧津軽藩のゆかりのある方、戊辰戦争に興味をもっている方など、多くの方がインターネットに情報を提供し情報を共有しておられる。
一連の調査を通じ、熊本・勝浦・津軽という3つの地点が、ハーマン号と官軍塚を中心にして相互に繋がっているという印象をもった。
 

タイトル 概要・リンク先  登録日付
 肥後細川藩拾遺 遭難者リスト  細川家の公式サイト 明治2年正月3日、ハーマン号で遭難した熊本藩士の名簿を記載した貴重な歴史的資料 恐らく勝浦市・川津・津慶寺の過去帳をベースにしたものであろう 2014年3月19日
 Yubarimelonの気ままな歴史散歩 にて同計画を紹介したページ 2014年3月19日
 Yubarimelonの気ままな歴史散歩 事件の概要を説明したページ(その1~2 2014年3月19日
 閑報EI Campo (房総の昔を探訪する) より、戊辰戦争・五稜郭の戦いの歴史的な背景が要領よく説明されています 2014年3月19日
 津軽と江戸 excite ブログ 津慶寺を探訪 2014年3月19日
 ハーマン号海難事故と日本人の心  シテイーライフ株式会社のサイト 外房版より 2014年3月19日
 第2回「黒船ハーマン号」慰霊祭に参加しました  「戸坂健一公式ブログ」 より 2014年3月19日
 「勝浦のとらさんのブログ より 2014年3月19日
 2011-02-19 房総半島一周の旅~4  「miso202の日記 より 2014年3月19日
 「南総交通社」公式ホームページより 2014年3月19日
 「勝浦市公式ホームページ」より 2014年3月19日
 官軍塚(観光案内)
 (アクセス不可 2015年2月23日) 2014年3月19日
 幕末の大風(書籍紹介)  (アクセス不可 2015年2月23日) 2014年3月19日
 黒船ハーマン号 
 左記サイトには以下の様なハーマン号の情報が満載されています慰霊祭の報告もあります(リンク省略)。
 熊本県の子孫による供養祭
 船長手記の和訳(前・後編)
 ■ネウェル船長の手記 ニューヨークタイムズ紙明治2年4月22日

 黒船ハーマン号に関する英文ブログ
 黒船ハーマン号概要

2015年2月15日
 戊辰戦争中に挫傷沈没した米国船ハーマン号を勝浦沖で発見  「日本の埋蔵金」研究所より 「水中考古学」の視点から見たハーマン号 2015年2月23日
 回向院と津軽  excite blog 「津軽と江戸」より 熊本藩歩卒47名の慰霊墓「溺死四十七人墓 山鹿屋」の記述 2015年2月23日
 史跡・博物館 東京・墨田区 (回向院)  幕末Web 世に棲む日々」 回向院の紹介 2015年2月23日
     


官 軍 塚


勝浦市の南方に位置する八幡岬に 「官軍塚」 があり、全体が公園になっている。勝浦灯台の近くである。以下、他のホームページの記述を借りて官軍塚について説明する。

勝浦商工会のホームページ を見ると、官軍塚の由来が次のように書かれている。

明治2年、まだ新しい政府に反抗して、榎本武揚の軍勢は函館の五稜廊にたてこもり、戦いを挑んでおりました。この鎮圧を命じられたのが熊本の細川勢であったのです。

  350余名の兵士は横浜で米国汽船をやとい、1月2日に品川港を出発しましたが、不運なことに翌日の夜、勝浦川津沖の岩礁で難破してしまいました。

 漁民たちは男も女も浜に集まり、身を切るような寒さと波しぶきの中で、命がけで救助に努めました。その甲斐あって、150余名の兵士の命をとりとめましたが、それ以上の犠牲者が出てしまったのです

  浜の人たちは、見も知らぬ人々とはいえ、遠く離れた熊本からやってきて犠牲となった兵士たちを深くあわれに思い、「官軍塚」をつくり、心から冥福を祈ったのでした。


Exciteブログ によると、官軍塚について以下の様な記述がある。

房総半島の太平洋岸、勝浦灯台の近くに「官軍塚」があります。
 明治2年1月に勝浦沖で暴風雨にあい沈没した、熊本藩の傭船に乗込んでいた遭難者が、地元の川津村民によって葬られています。

 「官軍」と名前が付いているのは、「蝦夷共和国軍」(榎本武揚等)を攻めるために派遣された、肥後熊本藩士が多数犠牲になったからです。
 
  彼等は、戊辰戦争の最終局面で官軍となった津軽承昭が、熊本藩主で実兄の細川護久に依頼した軍勢だったのです。
  また、藩士だけではなく、武器も海底に沈みました。そのため津軽藩は、替わりの銃器の購入を大倉喜八郎に発注しました。大倉は銃器の津軽への輸送に成功し、政商としての第一歩を踏み出します。


官軍塚は、百年忌を記念して1969年2月8日に建立された。中には、円形の台座上に「官軍塚之碑」が立っている。この碑の題字「官軍塚之碑」を揮毫したのは細川元首相の祖父細川護立で、碑文は時の千葉県知事・友納武人によるものとのことである。

また、熊本における供養碑は、熊本市横手町安国寺境内に「上総沖溺死者供養塔」がある。


官軍塚から望む太平洋の眺望は素晴らしい。凪の日には岩礁も隠れ、そこが難所であることを窺うことはできない。以下の写真は2011年8月12日に訪問した時のものである。なお、左の写真に記述されている遭難者の数が公式のものと異なっている。(写真はクリックして拡大)



肥後細川藩拾遺 明治2年1月2日ハーマン号沈没事件

肥後細川藩拾遺
は、「九州の雄、肥後熊本五十四万石を237年に亘り統治経営した細川家の歴史と業績をご紹介するサイト(当サイトより)」である。このサイトには上記のタイトルでハーマン号事件の顛末が遭難者・生存者の明細とともに詳細に記述されている。以下、冒頭の記述を一部を抜き出してみた。なお、文章は原文ではなく、現代語に翻訳してある


慶應三年十二月大政奉還の大号令がなされたにも係らず、榎本武揚ら旧幕臣は函館五稜郭にこもり最後の抵抗を試みていた。

新政府の要請を受けた津軽藩は、函館に入り榎本軍と戦い苦戦を強いられる。藩主津軽承昭の実兄細川韶邦は、事態を憂慮して援軍の派兵を決定、熊本藩士350人を横浜港からお雇蒸気船ハーマン号に乗艦させて出発する。

明治二年一月二日浦賀沖でハーマン号は座礁破艦して、多くの肥後藩士が水死する大事故となった。時代が大きく揺れ動くさなかに起きたこの悲劇は、130有余年の歳月をへて忘却の彼方にある。

改訂肥後藩國事史料から該当項をご紹介し、古里の家族を思い寒く冷たい異郷の海に散った多くの犠牲者の御霊に、心からの哀悼の意を表するものである。

明治二己已年正月二日本藩番頭寺尾九郎左衛門をして兵を率ゐ品川湾より海路奥州津軽に赴援せしむ

【明治二年ヨリ三年二月迄 御國東京往来状扣、京都并東京鶴崎長崎返達御用状控】

    軍務官江

    函館表騒擾付而當藩兵隊少々差向度段奉伺候處不苦旨御付札を以御差図御座候依之為援兵

    二百六拾五人異船借受一昨日差越候此段御届申上候以上

      正月四日

                                    細川越中守内

                                         井 上 治 部 丞

の先祖の一人は、須佐見家の一員として参戦していると聞く。須佐見家に関する記述もあるが、その中には該当する氏名は見当たらない。

須佐見グループについては、「〆9名右存命」とあるから全員生き残ったのだろうか?読解力がないので正直良くわからない。



アメリカ船籍蒸気外輪船「ハーマン号遭難救助」の絵巻物

 「約140年前、房総半島沖で200人以上の熊本藩兵らが犠牲になった「ハーマン号遭難事件」を伝える絵巻物が、熊本市の事件関係者の子孫宅で見つかった。「この事件を記録した絵巻物が発見された」という記事が、2010.12.26の「熊本日日新聞」に出ていたそうである。藩の国事史料などに事件の記録は残っているが、絵巻の形での記録は県内では見当たらず、研究者らは「事件の当事者が残した記録で、遭難の様子が一目でわかる貴重な史料」としている。
 

 この絵巻は、事件当時、川津周辺の漁民や海女が酷寒の中、夜を徹して救助作業に当たり、米国人乗組員58人を含む約200人を救出。救助に全力を挙げた地元民の模様は、生き残った熊本藩士の話をもとに、詳細な絵巻にしたものである。 
この絵巻物の一部が、「勝浦大好き人間」 さんのサイト に二点記録されているのでご紹介しよう。


その1

その2

現在海中に没しているハーマン号を引き上げるプロジェクトが発足した。2011年2月2日、東京新聞は以下のように報じている。


 明治維新直後、旧幕府軍と戦うため官軍がチャーターし、東京・高輪沖を出航後、房総沖で沈没した黒船の発掘調査が来年六月、日本水中考古学調査会と米テキサス農工大によって行われる。蒸気機関や兵器、軍用金などが引き揚げられれば、当時の日米交流などを物語る貴重な歴史的資料となるものと期待される。(2011.02.07東京新聞)