拡大法
    岡松じじのプロファイル 2014年制作
2017年9月全面改定

出自 私は1940年、肥後・熊本県の津奈木村に生まれた。津奈木小学校➡津南(しんなん)中学校➡鹿児島県との県境に近いので、鹿児島県出水高校卒業である。大学は東京の技術系大学・電気通信工学科卒。1964年化学系の会社に入社。定年+2年で退社して現在に至る。多趣味だが底が浅い傾向がある。
 隣町は水俣市だが津奈木は狭く相当な田舎村である。今は津奈木町になっているが、当時の鹿児島本線・津奈木駅は、過疎化という時代の流れに押されて、ローカル線の「オレンジ鉄道」津奈木駅に変わり今は無人駅である。


津奈木町中央部 (重盤岩より撮影)
(実家はこの岩山の麓)

津奈木町西側 (重盤岩より撮影)
(中央部の直線は九州新幹線)


 男3人・女4人の計7人兄弟の大家族で、私は第4子、男3人兄弟の末っ子である。岡松家は、結婚前の母は教師、その実家も教育畑、父も教師という教育一家である。私は、2017年9月現在77歳のシニア
ゴルフは今のところレギュラーテイーだが、たまにはレデイーステイーからプレイしたいと思うときもある。

性格
 昭和15年2月28日辰年生まれの魚座で、辰年とその星座の影響を受けているように思える。血液型はA型。肥後生まれは「わさもん」「肥後もっこす」と言われ、新しもの好きで飽きっぽい、へそを曲げるとテコでも動かない・・と言う性格で、私にもその傾向がありそうだ。新しいもの見ると心が騒ぐ。どちらかと言えば楽観的で、コップ半分の水で言えば、「まだ半分も残っている」と考える方だ。モットーは以下・・

 モットー  
生涯現役
一日一善
苦あれば楽あり、楽あれば苦あり
嘘をつかない
上昇志向(アウフヘーベン)


 私はデザインが好きで、上のロゴも自分のデザイン。  孫達からは”じじ”と呼ばれており、ママ側の実家が市川市にあり、そちらのじじ・ばばと区別するために、自分の呼称を”岡松じじ”とし、それをサイト名にした。青と赤のストライプは、若さと情熱を意味し、常時、上昇(アウフヘーベン)を心がけようする私の心情を表現したつもり。ロゴ全体は半透明になるように設計した。


孫好きじじ 私は幸い、3人の孫たちに恵まれた。普通のじじ・ババと同じように私も孫達が大好きである。今は中1の孫娘、小4の孫、小1の末っ子の孫娘を入れた3人の孫達と一緒に遊ぶのは私にとって無上の喜びである。

 リタイア後の人生の多くの時間を孫達に使っている。例えば塾などへの送迎、預かりなどは私に与えられた「天命」だと思っている。このホームページを始めた最初の目的が、孫や他の子供達が楽しめそうな工作のサイトだった。下の動画は子どもたちに評判が良かったうさぎの工作である。この工作の詳細は ココ を御覧いただきたい。弊ホームページでは、子供や孫達に関わるコンテンツが多いと思う。


ふしぎなうさぎ

ふしぎなうさぎ・使い方

 保育所に通う孫達(当時)と近所のじじ・ばばたちが一緒に遊ぶ「地域交流会」という年2回のイベントがあるが、その会で作る工作のアイデアを練ったり、工作の材料を提供することも私の生きがいの一つになっている。数は少ないが、このホームページの「孫の好きな工作」ページで作り方や素材を提供しているの見てほしい。記事が少ないのでもっとレパートリーを広げたいものである。

”創造”好き このプロフイルを改定するに当たり、自己を客観的に眺めて見たところ意外な事実に気がついた。好きな、興味が持てる領域として、発明、工作、設計・デザイン、料理、システムなどの共通項が頭に浮かんだ。いずれも”創造する”点に共通項がある。

 昔から発明や工作に興味を持っていた。5歳の頃、実家にあった置き時計を5個も壊してしまったという記憶がある。ねじ回しやペンチを使って、内部を取り出し、歯車。ゼンマイ・テンプなど一切の部品をばらしてしまったのである。この遊びが非常に面白かったことは記憶の奥で覚えている。親から怒られても仕方のないことであるが、このときは、理由は忘れたが、逆に親から褒められた記憶がある。我が親ながら偉いのではなかろうか。

 出だしが悪いが、小さい頃から工作や発明に興味があり、小学生の頃、郵便屋さんが手紙など入れると、「ありがとうございます、ご苦労様です」といった感謝の言葉がニューと出てくる自宅用の郵便受けを作って評判になったことがある。

 それほど多くはないが、35年くらい前、特許・実用新案も10数件出願している。例をあげよう。

 ■アナウンスマシン   バスの案内などの「次は〇〇駅です」といった決まりきった言葉を、スイッチを押すことで発声する装置
 ■ 侵入者検知装置  一定時間が経過するたびに室内の映像を撮影し、以前の画像と比較検討してある面積以上の違い(両者の違う部分を”差分”というが、例えばネズミは侵入者としないため)が見つかると侵入者があったと判断、映像を保存するとともに警報信号を出す装置。
 ■デジタル時計つき透明水槽
   (実用新案)
 液晶パネル(もともと透明) の外部壁面に透明な液晶パネルを貼り付け、金魚が鑑賞でき、同時に時刻が浮かび上がって見える仕組み。

 私の悪いところは、特許出願はするが、特許料が高額すぎたり、審査請求の手続きが面倒だったりの理由で出願することだけで終わってしまうことである。したがって、日の目を見た特許は実はない。上の2つの例は、出願後、5,6年したら実際に製品や商品が世に出てきたので ”しまった、審査請求以降の手続きまで踏み込んでおくべきだった・・” と反省している。
 発明が面白いと思うことは、ああでもないこうでもないと考えを巡らす過程にあるのではないか。その間非常に集中し、作業に没頭しているのであるが、夢中なだけに時間が経つのも忘れてしまう。この過程が楽しいのである。ただ、気をつけないといけないのは客観的になれないということで、できあがったものは他人から見るとへんちくりんな場合が多い。

 発明は既存の考え方やものを組み合わせることであるが、今までになかった新しいものを創造するという喜びがある。先に挙げた発明・工作・設計・料理などは「創造」という点で共通している。このページで述べている コンピュータ制御化学プラント の設計などを進めていた過程にも、きっと、ものを創造するという喜びを感じながら仕事をしていたに違いないと今にして思う。

 料理は非常に創造的な面を持っていると思う。私は「料理は発明に通ず」という持論の持ち主である。早い話が、冷蔵庫にある食材や余り物を使ってどういう料理を作るか・・という点で立派な創造的作業であり、1種の発明である。このサイトには、料理のページ もあるのでよろしければご覧いただきたい。

趣味 下手の横好きとはよく言ったもので、趣味は多いが、どれも平均以下のレベル。つまり、2流なのである。飽きやすい性格も災いして、カメラ、パソコン、工作、ゴルフ、ドライブ、映画鑑賞、音楽鑑賞、音楽演奏、アマチュア無線、料理、読書、旅行、発明(特許)・・・と趣味の数は多いが、どれとして1流のものはない。つまり下手の横好き趣味である。それでもそれなりに楽しいので続いているだけの話である。私の場合、今にして思うと、仕事も趣味の1つだったかも知れない。

趣 味

  カメラ、パソコン、工作、ゴルフ、ドライブ、映画鑑賞、音楽鑑賞、音楽演奏、アマチュア無線、料理、読書、旅行、(特許)、仕事・・・

仕事について  私が人生の多くを投じたのはシステム分野の仕事で、コンピュータの何でも屋だが、職業名はシステムエンジニア。私が従事したシステム分野では多い事例であるが、本邦で最初、世界でも例がないという仕事が多かった。大きな失敗もなくそういう仕事を世に残せたことは本当に幸せだった。(参考:業務経歴➖公開用

 一つ一つの仕事は、それぞれ心血を注いで仕上げたものであるだけに愛着がある。自分の子供みたいなものである。
「物事は多面的である」ことが最近良く見えるようになってきた。仕事についても同様である。一面からだけ眺めると、仕事は失敗することが多い。新しい仕事に当たると、上下左右、表面、裏面、全体俯瞰する・・などからその仕事を見つめるのである。いろいろなことが見えたり、解ってくるが、それらに価値とか優先順位、頻度、最も大事なこと、次に大事なこと・・・という風に優先順位をつける。そのように仕事を進めると、大きな失敗はしないのではないか?

 仕事は一般に大変である。苦しいことも多いが、これからやる仕事にはどういう価値があるのか、何の役に立つのか、他に似たような例がないか、あれば既存のシステムに問題はないか、どうすれば改善できるか、要求された仕様に何か付け加えると新しい価値が生まれないか・・などと考えを巡らすのである。このように考えれば仕事も楽しくなってくるだろう。決して上から押し付けられた仕事とは考えないことだ。このようにすれば、だいたい仕事は楽しくやれる。これは私の人生訓の一つである。

 その上で、最悪のケースと最良のケースを承知した上で、最後は楽観的な方を採るのである。もちろん、性格的に悲観的にしか考えられない人もいる。どうしても悲観的にならざるを得ない人を多くみてきた。だめな理由を先に考える人、そういう人をみると可哀想だと思う。

翻訳家と著述業 35年ほど前のことである。ある事情から、1983年~1985年にわたり、本業の傍ら兼業で専門のコンピュータ分野の英文技術書を翻訳するサイドワークをしたことがある。当時会員を募集中だった「バベル翻訳協会」のオーデションを受けた。幸いなことにすぐに合格し、協会メンバーにプロの翻訳家として登録された。会員になったらすぐいろいろな仕事がまわってきた。その1つが英文技術書の翻訳であった。

 どの会社・官公庁でも副業は原則禁止である。したがって、なぜ翻訳家を始めざるを得なかったかの背景・理由・状況について説明をしなくてはならない。
 これは、その頃担当した海外向けのコンピュータ制御プラント・プロジェクトと関係している。今にして思えば、この仕事は人生で最も大きく、かつ、我が人生の最大の危機だった。

 このプロジェクトは極めてリスキーで、周りからは失敗必死・・と噂されていた。この頃から、失業後の生活費を稼ぐために、技術分野系のプロの翻訳家としての活動を始め、執筆活動もするするなどの準備を始めたのである。要は名前を売るためである。
 最終的には、このプロジェクトは成功を収め失業しなくて済んだので翻訳業は廃業した。当然のことではあるが、翻訳業は就業時間外・祝休日にしか行わなかった。私の基本的信条から、本業である会社の仕事を手抜きすることは絶対にしなかった。私をよくご存じの方は、このことを信じてくれると思う。その証拠に、私の心血を注いだこのプロジェクトは最終的に成功したのである。


 技術系と芸術系(文系)の翻訳業の大きな違いは、同じ単語を文系では同じように訳せず、違った表現を用いることが多いという点である。そうしないと芸術性が低くなるという考え方である。反面、技術系では同じ技術用語は同じ言葉に訳しないと読者は困ってしまう。技術書としての厳密性が失われてしまう。したがって、翻訳を始める前に用語集(辞書)を作ることが最初の仕事になる。

 国内の専門書や雑誌などへの記事掲載も数10件位にはなろうか。記録が残っていなくて記憶もまだらなのでこちらは割愛する。コンピュータ関係では IBM レビューに頼まれて寄稿したこともある。

 このことは私の人生における最大の危機だったので、認知症でボケる前の記録の意味でやや詳しく述べさせて頂く。このプロジェクト全体について本を書くとすれば恐らく数冊くらいにはなろう。ただし、プロジェクトの詳細については私がこの世を去るまで守秘義務があると思うので、差し支えない範囲でプロジェクトの片鱗に触れることになろう。

 全部で10冊位の書籍をものにしたが、恥ずかしさの方が先に立ち、ひょっとしたら誤訳があるのではないか・・との心配もあり、今更見たくもないが、今検索してみたら次の2作が引っ掛かったのご紹介しておく。
 1981年には36冊という大量出版(Wikipedia)で名を馳せた竹村健一氏は、毎月のように本を出していたが、4,5冊位は私(たち)がお手伝いさせていただいたものである。


 最初の出版物は当時元気だった両親にプレゼントしたことを覚えている。この辺の細部や状況については家族の誰にも話していない。このような苦労は男としての当然の義務だと思ったのと、話をすると心配をかけるだけだし、話してもよくわからないだろうと思ったからである。


 コンピュータ・グラフィックスの基礎 (1983年) - – 古書, 1983/11
A.A.マフティ (著), 岡松 三千春 (翻訳)
登録情報
-: 219ページ
出版社: 啓学出版 (1983/11)
ASIN: B000J7AHWA
発売日: 1983/11
 

 ドナルド先生の イラストFORTRAN―たのしく学べるFORTRAN入門 単行本 – 1984/8
ドナルド・アルコック (著), 岡松三千春 (翻訳)
登録情報
単行本: 130ページ
出版社: 啓学出版 (1984/08)
言語: 日本語
ISBN-10: 4766501470
ISBN-13: 978-4766501476
発売日: 1984/08

 私も、一家の主として家族を養っているので、失敗したら会社に居れなくなるのは間違いがない以上、もちろん、プロジェクトが成功するための最大限の努力はするが、自衛策として失敗した時の対策を打っておかなくてはならない。私は、自分で言うのも憚られるが、英語が得意である。高校の英語教師に「お前、外交官になれよ・・」と言われたことがある。

 手始めに、「バベル翻訳協会」(当時、今はバベルグループ)の会員に登録、プロ翻訳家としての仕事を始めた。ペンネームを何にするか悩んだが、実を取り本名にすることにした。試験問題は、1ページ程度の英語記事を翻訳することだった。翻訳という仕事は、英文や和文の文章を技術的に変換するだけでは足りない。先方の文化・思想・出来ごと、歴史などをよく知っていないと的確な翻訳にはならない。試験問題は、その意味でよく練られていた。

 会員になったらすぐいろいろな仕事がまわってきた。その1つが技術書の翻訳である。色々ある中で、中止になったロシアのオリンピックのルール集の翻訳というのがあった。これは馬術のルール集だったが、馬術のルール集・採点基準などは殆どがフランス語でできている。翻訳に自信が持てず頭徹尾悩んだ。誤訳があったことには自信がある。ロシアには悪いが、オリンピックが中止になって本当に良かったと思っている。変わったところでは、海外にソフトウエア開発を外注するための仕様書の和文英訳という仕事もあった。これは原稿料が割高で、殆ど同じ文章が10ページ以上あり、ワープロのコピーだけで1ページ分の原稿料が頂けるケースが多く、随分楽に大きく稼がせて頂いた。こうして始めた副業は結構儲かった。当時のお金で2百万円くらい稼いだと記憶している。これで、ある程度食って行けるかもしれないという自信ができた。後で課税されて来た所得税も結構大金だった。


人生の試練・コンピュータ制御化学プラント 翻訳家を始めるきっかけとなったのは、あるコンピュータ制御化学プラント・プロジェクトを担当することになったことにある。この仕事は私の人生最大の仕事であると同時に、今考えても、私の人生最大の試練だったと申し上げても差し支えない。

 このプロジェクトでは契約先から”ボンド”という義務が課された。10億円のボンドを相手国の銀行に預金しておき、1週間行われる「保証試験」に合格しないとプロジェクトは失敗、するとそのボンドが没収されてしまうという契約である。この金額は会社の存立を左右するほどの大金であって、失敗したら私は会社を辞めるしかない。

 後で聞いたのだが、「過去の事例からみて、この保証運転は実施されないだろう・・」と契約当事者は想定していたという。実際には保証運転は実行されたので、その契約当事者は重大な判断ミスを犯したことになる。

 私の仕事は、某国にコンピュータ制御の化学プラントを設計・建設・保守運転指導まで行うことだ。受注したのは良いが、国内で試験中だった小規模のパイロットプラントがうまく行き見通しが立ったので、いきなり成約したと聞いた。無謀契約というしかない。

 当プロジェクトは、既設の連続式プラントを改修してバッチ兼用プラントに仕上げるという世界でも類例がない方式であった。パイロットプラントの数千倍規模の商用プラントを一挙に建設(改修)するというケースは普通はなく、自前の商用プラントで実証した上で客先に収めるのが常識であり、一足飛びに客先の既存のプラントに適用すること自体が無謀である。相手国も我々に国内実績が存在せず、当プロジェクトがリスキーであることを読んでボンド契約を要求したのであろう。

 以上のような状況にあるので、社内にはリスキーなプロジェクトであることを関係者は全員熟知しており、先を読める有能な社員はまず担当者になることを避けるであろう。事実、私以外の担当者は逃げるか、逃げることができない担当者は責任を逃れるための対策を打ってくる。問題が起きて相談してもまともに取り合ってもらえない。「俺は被害者だ」と公言する担当者もいた。国内の会社内でも、客先に設営したプロジェクトの現場サイトでもそうなのである。真面目に相談に乗って失敗すると責任を問われ兼ねないからであろう。

 だからといってそういう人たちを恨みには思っているわけではない。人間は本来弱いものであり、自己を中心に考えるのであり、多面的であり、そういうものなのだ。自分のやり方や考え方と違っていてもそれが現実だし許せる。

 ところで、私は技術屋であるから政治的な思考は不得手であるが、失敗したら私の責任になってしまう状況が出来上がっていることを、さすがの私も理解できた。
 コンピュータ制御方式は意外に柔軟性がある。試運転直前になって機械設計上のミスや不具合が発生すると、プログラムで何とか対応できないかの相談が結構あった。プロジェクトを成功させるためにはコンピュータ側で対応するしかない。相談を受けたケースはすべて対応できた。しかし、コンピュータ本来の仕事も並行してやらなくてはならない。こちらは私一人、相手は複数なので、今となっては懐かしい思い出ではあるが、当時はかなりきつかった。

 このプロジェクトはコンピュータ制御プラントなので、コンピュータ制御がうまくゆかないことにはこのプロジェクトは必ず失敗する。コンピュータ制御に適任の技術者は、社内を見渡した所私しかいない。つまり、私は、成功するしかない絶体絶命の立場に置かれてしまったのである。

 システムの概念設計・基本設計・詳細設計・仕様書などはすべて私が独自に設計した。制御コンピュータは Foxboro,、シーケンサー方式を採用し、制御卓なども独自に設計した。通信系には悩みが多く、同軸線で全信号を送受信できるデジタル通信システムも使えたが、ノイズなどの影響で安定性に欠けており、経験上信頼できなかったので、プラント~コンピュータ間の入出力信号は全部個別有線のアナログ方式とし、デジタル/アナログ入出力信号接続盤を介してシーケンサと現場間を直結させた。
 
 このコンピュータのプロジェクトは国際的で、私の30cm厚ほどの英文仕様書を元に、客先のコンピュータ担当者が計測制御部門のプログラミングを担当、コンピュータ本体は米国製の Foxboro、バッチ制御用シーケンサは安川電機製、プログラミングは私本人、両者間をリンクする通信機はフランス製・・といった具合。どれかに不具合や発注ミス・設計ミスがあれば全体としては作動せず、プロジェクトは失敗するであろう。普通だったら気が狂ってしまうほどの複雑さである。これはプロジェクト期間が3年以上という幸運に救われたと思う。 
 仕様書は主要なものだけで、制御用コンピュータ、シーケンサー、デジタル/アナログ入出力信号接続盤、制御卓、制御用CRTコンソールデスクなどがある。

 仕事はそれこそ腐るほどある。全文書類のチェック(何10回も繰り返した)、海外の現地で行うプロジェクト会議(合計7,8回)、オランダ・スースト市での制御用コンピュータの打ち合わせ(2回)、議事録作成、多くの相手先へのテレックス送受信(その頃電子メールはまだなかった)、仕様書間の関連性チェック、シーケンサの論理図作成、同プログラミング・・


シーケンサー(部分)

制御用コンピュータ


 保証運転は最高1週間にわたりぶっ通しで運転するが、この期間内に決められた製品量と品質をクリアすれば合格である。最終的にはうまく行ったが、周到なデバッグや万全のテストを行った積りでも問題は起きた。ある段階で来るべき接点信号が到着しなかったのである。開閉弁の開閉を知らせるマイクロスイッチが取り付け不良のためか作動しなかったと見える。こういうことは初期にはあり得ることである。

 また、予兆もあり心配していた先方作成の制御用プログラムの不具合も発生した。保証運転直前に、先方のプログラム責任者一家がバカンスのために海外キャンプ旅行に出かけてしまったこともアンラッキーであった。日本人では考えられない暴挙であり、何とかバカンスを止めさせようとして、文字通り机を叩いて(机を叩いて議論したのはこれが最初)の大喧嘩になったが、「1年も前から計画していることで、代わりの担当者も用意したから認めて欲しい」という主張は認めざるを得なかった。同僚も「しょうがないですよ」と無責任にも他人事のように諌めてくれる。

 私は欧米人の基本的な考え方が、宗教上の理由から来ていることを悟らされた。頭では知っていたが、身をもって価値観の違いを認識した。
 東洋では「労働は善」であるが、欧米では人間は罪を犯したので罰として労働を与える、と神が決めたので、しょうがないから働いでいる。労働は人生をエンジョイするために働いているのだ・・と我々とは正反対の人生観を持っているのである。ホリデイとは聖なる日のことで神が決め給うたので聖なのである。

 すべての信号がタイミングよく到着しないとシーケンスが先に進まず、保証試験はそこで失敗する。こういうことは想定済みなので、設計段階で準備しておいた「手動バックアップ盤(下の写真)」にある256個のスイッチの1つから手動で疑似信号を入れてやるのである。もともと、手動だけでプラントが運転できるようにしたのがこの手動バックアップ盤で、今更ながら、素晴らしい設計で天才かと思うほど良いアイデアだね・・と自分を褒めてやりたい気分(誰もホメてくれないから)。さらに付け加えると、世の中のすべての自動システムには何らかのバックアップ・システムが付けてあると思う・・

 余談であるが、プラントの敷地は広くて、後楽園球場くらいの広さになろうか。その化学プラントをコンピュータで自動的に細かく制御するわけだからすごいことではある。そのプログラムが制御コンピュータとシーケンサにすべて収まっていることも考えて見ればすごいことである。

 シーケンスは頭のなかに入っているので、次のシーケンスに進むためにはどの信号(複数)がオン・オフになるべきか、圧力・流量・タンクレベル値がどのような範囲にあるべきかなどの諸条件は手に取るように分かっている。プログラムミスもこれでカバーできた。このバックアップ盤は大成功であった。まさに「救世主」であった。1週間、運転室にベニヤ板と毛布を持ち込んで、ときどきうたた寝をしながら24時間対応した。日本から派遣された運転指導員はちゃんと3交代要員を確保していたが、コンピュータ側は私1人だから大変だった。よく死ななかったものだと思う。だから、今でも失敗する夢を見ることがある。
 記憶があやふやだが、保証運転は1週間はかからず、無事、3日ほどの短期間で成功裏に終了した。

 
救世主手動バックアップ盤」 (拡大可能)

 このレポートを書きながら、うまく行ったことがだんだんと奇跡のように思えてきた。きっと神の助けがあったに違いないと思った。

 客観的に見ると、成功した、いや、失敗しなかった理由は以下ではなかろうか。

 
プロジェクトの期間が3年と比較的長期間だったこと。
  一人で全部やったこと。
  概念設計・方式設計が適正だったこと。
  客先のコンピュータ技術者が、その国最高レベルの人材だったこと。
  バッチ制御の核心を握るシーケンサのプログラミングを自分でできたこと
  国内・選定メーカーが横河電機・安川電機で先方の担当者も優秀だったこと。
  健康と幸運に恵まれたこと。

 今回の規模のコンピュータ・プロジェクトだったら、普通、プロジェクト管理者1名(フルタイム)、概念・方式設計技術者1人、コンピュータ・ハード技術者社1名、プログラマー数名で3~6人程度のチームになるだろう。どだい、上記の領域に全て通じている技術者は世の中にはまず居ない。当事者は私1人なのでこれらを全部やらなければならなかった。今までハード・ソフト両面の仕事をやってきたのでそれほど難しいとは思わなかった。むしろこのような仕事であるからこそ仕事は楽しかった。一般に大変な作業だが、プロジェクト期間が長いので、勉強する時間はたっぷりあり、メンバー間の意思疎通も要らないので、その意味で最高に効率的であった。

 概念設計・方式設計については、過去の経験が役に立った。プログラミングが好きなので苦にはならなかった。メーカーとか客先の要員が優秀で頑張ってくれたことも非常に大きな要因であった。幸運にも恵まれたのである。

 プロジェクトはお陰様でうまく行き、10億円のボンドも無事返って来た。このプロジェクトは社長特別賞まで貰い、翻訳業に転職することもなく定年+αまで勤め上げることができた。

 私は本業がシステム・エンジニアであるが、微分積分学が不得意である。専門領域でありながら、マックスウエルの電磁方程式もよく解けないくらいで、潜在能力的には文系だろうと思ってる。岡松じじのこのサイトも文系であるがゆえに書きなぐっているような気がするこの頃である。

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